父は、去年の暮れにステージ4の胃がんと診断され、その年明け・今年1月に余命を宣告されました。
早ければ2か月、何か施せば4か月、長くても次の正月はない。
父は落胆しました。同時に、父は生きてやると言う強い決意をしたように感じました。
私は、色んな本やネットで、自分の出来ることを模索しました。その中で、とある医師がこう書いていました。
がんで死ぬことは、もっともいい死に方だ。
がんは、事故や災害など不意な死と違い、分かってから死に至るまでに猶予がある。
つまり、その期間にがんの当人も周りも、やりたいことができる時間があると言うのです。
それを読んで、私は決めました。父の残された期間、自分自身、悔いの残らない時を過ごすと…。
そして、闘病生活がはじまりました。
入院し、抗がん剤治療が開始されました。私や妻、娘は何度も新幹線で父を見舞いました。
辛い副作用で、父は次第に食欲がなくなり、返答もままならないくらいで、見ていて可哀想になるくらいで、このまま逝ってしまうのではないかと、幾度も気をもみました。
ただ、治療の方針を変えたことで、冬を越え春になると、父の容態は安定し、自宅へ帰ることができました。
自宅では、食事制限はなく1日おきに抗がん剤を飲み、2週間に1度の通院でした。
自宅療養中、父とは近所の温泉宿へいったり、食事や買い物へ出掛けたり楽しい時を過ごし、桜も見られることができました。
周りの目を盗んで、バイクにも乗ったようです。
日常は、庭の草を取ったり、野菜を作ったり、近所を散歩したり、ペンキを塗ったりと、病気前と変わらないような充実した日々を送っていました。
趣味の写真は、撮るだけでなく、その写真をまとめて製本したり、DVDに動画として記録することをはじめました。
カメラを買い足したり、プロジェクターを買ったり、散財を好まなかった父らしくない、購買意欲でした。
また、行きたいところを
焼津、下呂、琵琶湖、新城…
とあげ、旅行を計画しました。
そして、梅雨が開けた夏に、父母、私の妻、娘と
焼津へでかけました。
そこでは、余命を宣告された病人には思えないくらいに、元気な姿を見せました。
また、7月の終わりには、花火をみたいと言うので私とふたりで、蒲郡の花火大会へ行きました。
父の場合、見るだけではなく、撮影が主なので、2台のカメラ、三脚などを携え、開始の3時間前から場所取りに出掛けました。
始まってから終わるまでの間、終始立ちっぱなし。自分ががんと言うのを忘れるくらいに、本当にいきいきしていました。
しかし、容姿は目を背けたくなるくらいに痩せこけ、そのとき、すでに体重は40キロ台でした。
5センチの段差がひとりで上がれないくらいに、筋力は衰えていました。
花火大会のとき、段差を越えるのに私は父の手を取りました。
父と手をつないだのは、この前の記憶にありません。
8月には私の夏休みにあわせて、父のところにも訪ねました。
ひとりで歩いて、生活はできるものの、疲れやすく、7月に見たような、いきいきとした姿は見られませんでした。
9月に入ると、布団から立ち上がるのがつらいと言うことで、介護ベッドを家に入れました。
私の小学校の同級生が介護ケアホームを営んでいるので、そこにお願いし、小回りの利いた対応をしてもらいました。
しかし、容態は芳しくなく、再び入院します。それが9月14日(金)です。
同じ日、娘もアレルギーの負荷試験で、入院しています。
三連休の初日、娘は無事試験を終え、退院しました。私はそのとき、父を見舞おうか迷っていました。妻に相談すると、行きなさいと、背中を押してくれました。
16日(日)、病院へ母と訪ねます。
母に口答えするほどの気力はありますが、寝ていた方が楽といいます。また、テレビやラジオと言った耳や目から何かはいるのを嫌がりました。
私が持参した、娘の写真ですら見たいけど見られない感じでした。
この日、4人部屋から特別個室へ移動しました。この特別個室は、冬に父が好んで入った部屋と同じです。
私は、この日、何かを感じました。
1週間、持たないかもしれない…
実は、この翌週、当初、父が望んだ琵琶湖へ行く予定にしていました。しかし、容態が悪くなり旅行できるほどでは無くなったので、取り止めました。
そのかわりと言うわけではないですが、義理のご両親が父を見舞ってくれることになりました。
17日(月)、敬老の日。
日中、東京で妻と娘と買い物に出掛け、いつも通りの休みを過ごし、夜、娘を寝かしつけようとしていると、妻が電話しながら、寝室へあがってきます。
『ばあば(私の母のこと)から…』
今、父の病院から電話があり、来てくれとのこと。所要時間も尋ねられたと言います。
私は、ちょうど翌日からの仕事のメールをしているところで、前の週に娘の病院で仕事をパスしたこともあり、今すぐ、病院へ行くことを判断しかねていました。
その私を見て妻は、『行ったら』と背中を再び押してくれました。ひとまず、私一人で家を出ることにしました。
仕事柄、急いで家を出るのに慣れていたので、家を出て30分後には、新幹線に乗っていました。
私の心中は、あす何時に東京に戻ろか、考えていました。23時半に病院到着。
母は到着し、父は心電図モニターが付けられ、鼻から酸素の管を入れていました。私の問いかけに、軽く応じていたようにも見えました。母が私が来たことを父に告げると、目尻に涙を浮かべたように見えました。
病室には、テレビからのニュース23と父の呼吸の音だけがしました。
18日(火)
1時間ごとに回ってくる看護師がバイタルをみます。
2時台の巡回で、母と私は、廊下へ呼び出されました。状況がよくない。知らせる方には連絡を…
熱があり、血圧も60/30、脈も計りにくいとのこと。血中の酸素濃度が低いので、酸素マスクがつけられました。
父の姉夫妻と母の姉夫妻と娘が、血相を変えてやってきました。3時を回っていたと思います。
5時になると、段々外も明るくなり始めました。きょうのこともあるので、集まってくれた人達は、帰られました。
私たちにも睡魔が襲います。
私も母も父から目を離したそのときです。
今まで、呼吸で胸の上下が続いていたのが止まりました。同時に看護師が勢いよくドアを開けます。
モニターも、0になったようです。
手元の時計で、5時42分でした。
父は、70年の生涯の幕を閉じました。
ただただ、無念でした。
しかし、父は苦しむことなく、天へ招かれました。
私と母は、それを見届けることができました。
家族3人で、父との最期を過ごせました。
すべて好条件が揃っただけ、たまたまかもしれません。
でも、急逝ではこうもうまくはいきません。
容態に消長はあったものの、余命を宣告されたあと、私、母、妻、娘、そして父は、有意義な最期を過ごすことができました。
全員で旅行にも行き、
妻は千羽鶴を折り、
母は拒んでいたリフォームを断行し、
娘は父と一緒に風呂に入り、
父は自分の写真を製本して、足跡を残し、
この9か月、最高に充実した時間でした。
今でも、がんを憎んでいます。
しかし、父は体をはって私たち家族の絆を深めてくれたわけです。
がん患者は、5人に1人といいます。
誰もがかかりうる病です。
もちろん、がんでも急に死に至るケースもありますが、私たちのような幸せなケースもあります。
あきらめないでください。
明るく考えください。
それがきっと、
本人や皆が幸せになれるひとつの術です。
父さん、楽しい時間をありがとう。
病院から見た、旅立った日の景色


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